日外アソシエーツの出版物で、雑誌や新聞に掲載された書評や、著編者による自著紹介を記したブログです。
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- 2007.08.31 生きているのではなく、生かされているのだ(白鳥詠士)
- 2007.08.30 編集後記「からだ、不可解なり」(朝日崇)
- 2007.08.06 「内部障害者」の運と命語る(栗岡幹英)
- 2007.07.30 澤井繁男氏、自著を語る
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「からだ、不可解なり─透析・腎臓移植に生かされて」
澤井繁男著 2007年6月刊
定価1,980円(本体1,886円)
四六判・230頁 ISBN978-4-8169-2054-7
案内サイト:
http://www.nichigai.co.jp/sales/karada.html
「闘病記」と冠する書籍やTV番組は数多くあります。肉体的な苦痛、精神的な苦痛、家族の苦労などがわかりやすく書かれています。ところが、多くを読んでいくうちにある意味食傷気味になります。それぞれの人生、それぞれの環境で同じものなど無いのですが、日を追って緻密に書かれていればいるほど「同じものを読んだなぁ」という気になります。
人というのは生命体ですから、系統的に各臓器が働いています。病気というのはその一部が不全になり、重篤になれば死を迎える、本書を読むまではそう思っていました。理論的に病気になるというのは物理的なことですから間違い無いのですが、心情的には「どうして私だけ、どうしてこんな時に」と思ってしまいます。多くの闘病記はここまで。書き手はほとんどの場合素人ですからそれ以上の表現ができません。それ以上の表現を望むなら、愛する人が死んでしまう…というような(流行の)小説や映画を見ればいいでしょう。
本書は著者の闘病の経緯から書き起こされています。著者は小説家であり文学研究者でもあるため、余分な脚色無しに叙述しています。たいていはここで終わりなのですが、本書I部後半からII部では、宗教学者との対談を交えて心と体、身体と肉体など単なる精神論ではない、病人の精神面について深く掘り下げているところが興味深い。III部では著者が経験した医療の問題点を取り上げていて共感する話が多くておもしろかったです。もし私が今日まである程度健康で過ごしてきたのなら「なるほどね」とだけ思うところでした。不運なことに(本書では『不幸』ではないと書かれている)私も中年を迎えるところでガンの手術を経験してしまい、『死』というものが人ごとではなくなりました。大病をして思うことは本書にも何度も出てくるフレーズです。
『生きているのではなく、生かされているのだ』
白鳥詠士
「からだ、不可解なり─透析・腎臓移植に生かされて」
澤井繁男著 2007年6月刊
定価1,980円(本体1,886円)
四六判・230頁 ISBN978-4-8169-2054-7
案内サイト:
http://www.nichigai.co.jp/sales/karada.html
印刷会社の担当者に、「編集者はいいよなあ、一つの本を担当するとその内容が分かって、知恵がついて」とよく言われます。勿論、その担当者だって、校正を読むことが出来るわけですから、事前に内容は分かると思います。たぶん彼は、一書の編集の経緯のなかから、得るところが沢山あるのだといいたかったのでしょう。そんな経緯の一端を紹介いたしましょう。
著者・澤井先生と、宗教学者・山折哲雄先生との対談を企画しました。こういう、形而上のテーマは、対談や講演録のような生の言葉が理解を助けることが多いという判断からです。
今回も山折先生が抱える問題を上手く引き出していただき、さらに議論は東西の文化の深淵にまで及び、碩学、とはこういうご両所のことを言うのかと、同席して思いました。
こんな降りがあります。
山折:万葉集の中に挽歌、死者をいたむ歌がたくさん出てまいります。それを見るとほとんどの人は、息を引き取ってもう死んだということが確認されると、山の麓とかに放置されるわけです。そうすると体から魂が抜けていって、山頂へ上っていく。そういう信仰がだいたい定まっていたと思います。しかしそうする前の段階で、しばらく地上に安置するつまり「もがり」という風習がありました。三日、そのままにしておくとか、一週間、そのままにしておくとか、そういう前段的な儀礼がありました。それは抜け出ていった魂が再び戻ってきて蘇生する可能性が期待されているからです。つまり死に至るまでの一種の猶予期間です。
この後、我が国に仏教が入り、霊肉一元論になった、という思想史が語られます。
澤井:例えば胸が痛いとか言う時に、たいていはここ(胸)を押さえますよね。僕は多分、おなかを押さえると思うんです。だから心というものがその人それぞれの意欲とかモチベーションとか、そういうものすべてをつかさどる総体のようなものだという気がします。僕の場合、その総体というのは、もちろん呼吸して生きてますけど、これが無いとすぐに死んでしまいますから、ここがある意味で、僕の複合的な総体なわけです。
澤井流の、「心」論が展開されると言う具合です。
山折先生は浄土真宗の僧侶でもありますが、もうお一方、富岡幸一郎先生の推薦文を挙げなければいけません。富岡先生はクリスチャンです。以下のように、キリスト教とアニミズムの示唆をされています。
およそ「近代」の思考の根底にあるのは、人が「生きなければならない」という生命至上主義、人間中心主義のヒューマニズムである。宗教において、この「ねばならない」という思考はいわゆるファンダメンタリズム、原理主義と呼ばれるものに転化する。キリスト教の内にもこのような一神教の原理主義がある。澤井氏が中世・ルネサンスの研究のなかで、アニミズムや魔術思想に深い意味を見い出しているのも、一神教の原理主義の「尊大」の危険を十分に洞察しているからであろう。
あたかもいま流行の歌『千の風になって』の世界も伺えます。
さて、著者自身は、自著を語る(書評館)で、
自分のからだについてはわからないことばかり、というのが正直なところです。からだも、心体とかいて、自分で勝手に納得していたころから、「からだ」と平仮名で書いてやっと落ち着きをえる時期までずいぶんと日数がかかりました。
と書かれています。
これにはちょっと、説明が必要です。
本書では、こういうように書かれています。
「からだ」には、病を抱え込みうる物質的な〈肉体〉と、構造性を強調する〈身体〉の二つがあるらしい。とすれば、身体障害者とは有機的な内外のからだの構造の一部を喪失した者の謂であり、病人と身体障害者は違う、と提言する学者の説、それを受容しようとした私の意向が内実を得たことになる。病んでいるのではない自分を確認し訴えたかった。(なぜなら、透析時代から移植手術を経ても、一部の無知でかつ心ない医療従事者をはじめとして、友人知人のほとんどが私を病人扱いしたからである。闘病生活で大変でしょうが頑張って下さい―この種の励ましの言葉を直接かけられたり手紙をくれたりした)。
しかし学者の説を一応納得ずくで採り入れても、あくまであたまからの言葉でしかなく、「からだ」を〈肉体〉と〈身体〉の次元でみずから捉えきってはじめてからだからの言葉となって、私の内に生着した。
教育、宗教、医療という精神の崇高さが求められる最たるものが現在の日本では病んでいると言われます。どうも著者は、みずからのからだと引き替えに、徒手空拳で生の論理を弁証しているように見えます。
これを読者に上手く伝えられるよう編集に腐心したつもりです。碩学のハーモニーを堪能してください。
朝日 崇(日外アソシエーツ編集局)
「からだ、不可解なり─透析・腎臓移植に生かされて」
澤井繁男著 2007年6月刊
定価1,980円(本体1,886円)
四六判・230頁 ISBN978-4-8169-2054-7
案内サイト:
http://www.nichigai.co.jp/sales/karada.html
イタリア文学者にして小説家、そして大学教授でもある澤井氏の、四半世紀にわたる闘病生活の記録と、宗教学者・山折哲雄氏との対談、そして医療について書きつづられたエッセーからなる。もっとも「闘病」と述べるのは、氏の望むところではない。氏によれば、腎臓の機能を失った内部障害者の「運」と「命」の記録である。そこでは、腎臓移植を受けて人工透析から解放され、肝炎治療に使用したインターフェロンによって機能しなくなった移植腎をあきらめて再び透析に戻り、さらに腹膜を利用した透析を経験し、腹膜炎による手術を経て三度人工透析に至る、「起伏のある」時間が流れる。
氏は、受診したある医師にこの経過を語ったときに返されたことば「…不幸な人生でしたね」にわだかまりを覚え、その言い方は「やはりひどいんじゃないですか」と抗議する。また、「ギラギラ輝く目で夫婦間移植を迫る」医師のいる病院を離れ、「今強いて移植するには及ばないでしょう」と穏やかに語る医師に、あるべきインフォームド・コンセントを見いだす。
さらに澤井氏は「病む現象を受け止めてくれる肉体」と「身体」を区別し、自らを「からだの内外の構造に欠落がある」身体障害者だととらえ、「透析は苦しい」という医師の思いこみに反して、「透析を辛(つら)いとは思ってはいません」と答える。「一回一回の透析で再生する歓(よろこ)びがあり、自分の血流を一部でもこの目で見ることで循環的感覚をしみじみと味わえること」を「透析の醍醐味(だいごみ)」だと言うのである。
患者が医療と医師とをどう経験するのか、患者からみて今日の医療とはどういうものなのか、話は代替医療や病気腎移植に及び、賛成するかどうかは別として独自の見解が語られる。長期の経験を踏まえて語られる澤井氏の思いは、いつ同じように障害や病気に向き合うことになるかわからない私たちにとって興味深いというばかりでない。自らは透析も移植も受けない多くの医師や看護師たちにも知ってほしいものである。
(奈良女子大学文学部教授・栗岡幹英)
奈良新聞 2007.7.29 9面(読書 BOOKS)より転載
澤井繁男著 2007年6月刊
定価1,980円(本体1,886円)
四六判・230頁 ISBN978-4-8169-2054-7
「からだ、不可解なり」案内サイト:
http://www.nichigai.co.jp/sales/karada.html
自分のからだについてはわからないことばかり、というのが正直なところです。からだも、心体とかいて、自分で勝手に納得していたころから、「からだ」と平仮名で書いてやっと落ち着きをえる時期までずいぶんと日数がかかりました。この本は、身体障害者となった自分が自身の肉体を見つめて、日々思ったことを伝記風にまとめたものです。どうしても観念的になりがちな自分の悪癖を直しながら、僕の歩んできた道を出来る限り平明にかいたものです。
山折哲雄先生との対談のおかげで、少しでも難しい話がわかりやすくなっているとおもいます。対談の名手相手に悪戦苦闘のかんもありましたが、お話をしているうちに見えてくるものもあって、話に実がはいりました。この対談の2日後に、腹膜炎を起こして僕は入院してしまったので、実質、腹膜透析について語った最後のときに相当します。その意味でも大変意義深い対談でした。
医療批判の章については、すべて、このとおりです。京都大学医学部付属病院が批判の矢面に立っているかんがして恐縮ですが、関西では最大手の病院であるので、これは我慢してもらいました。
富岡幸一郎氏の解説も多少、照れくさくなるような文面ですが、僕にとってはありがたいものです。氏の視線は確かで、敬服に値します。
以上、簡単ですが本書について語ってみました。どうぞ、ご関心のある章からお読みください。どこからでも読み進められますから。 <澤井繁男>