日外アソシエーツの出版物で、雑誌や新聞に掲載された書評や、著編者による自著紹介を記したブログです。
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「からだ、不可解なり─透析・腎臓移植に生かされて」
澤井繁男著 2007年6月刊
定価1,980円(本体1,886円)
四六判・230頁 ISBN978-4-8169-2054-7
案内サイト:
http://www.nichigai.co.jp/sales/karada.html
印刷会社の担当者に、「編集者はいいよなあ、一つの本を担当するとその内容が分かって、知恵がついて」とよく言われます。勿論、その担当者だって、校正を読むことが出来るわけですから、事前に内容は分かると思います。たぶん彼は、一書の編集の経緯のなかから、得るところが沢山あるのだといいたかったのでしょう。そんな経緯の一端を紹介いたしましょう。
著者・澤井先生と、宗教学者・山折哲雄先生との対談を企画しました。こういう、形而上のテーマは、対談や講演録のような生の言葉が理解を助けることが多いという判断からです。
今回も山折先生が抱える問題を上手く引き出していただき、さらに議論は東西の文化の深淵にまで及び、碩学、とはこういうご両所のことを言うのかと、同席して思いました。
こんな降りがあります。
山折:万葉集の中に挽歌、死者をいたむ歌がたくさん出てまいります。それを見るとほとんどの人は、息を引き取ってもう死んだということが確認されると、山の麓とかに放置されるわけです。そうすると体から魂が抜けていって、山頂へ上っていく。そういう信仰がだいたい定まっていたと思います。しかしそうする前の段階で、しばらく地上に安置するつまり「もがり」という風習がありました。三日、そのままにしておくとか、一週間、そのままにしておくとか、そういう前段的な儀礼がありました。それは抜け出ていった魂が再び戻ってきて蘇生する可能性が期待されているからです。つまり死に至るまでの一種の猶予期間です。
この後、我が国に仏教が入り、霊肉一元論になった、という思想史が語られます。
澤井:例えば胸が痛いとか言う時に、たいていはここ(胸)を押さえますよね。僕は多分、おなかを押さえると思うんです。だから心というものがその人それぞれの意欲とかモチベーションとか、そういうものすべてをつかさどる総体のようなものだという気がします。僕の場合、その総体というのは、もちろん呼吸して生きてますけど、これが無いとすぐに死んでしまいますから、ここがある意味で、僕の複合的な総体なわけです。
澤井流の、「心」論が展開されると言う具合です。
山折先生は浄土真宗の僧侶でもありますが、もうお一方、富岡幸一郎先生の推薦文を挙げなければいけません。富岡先生はクリスチャンです。以下のように、キリスト教とアニミズムの示唆をされています。
およそ「近代」の思考の根底にあるのは、人が「生きなければならない」という生命至上主義、人間中心主義のヒューマニズムである。宗教において、この「ねばならない」という思考はいわゆるファンダメンタリズム、原理主義と呼ばれるものに転化する。キリスト教の内にもこのような一神教の原理主義がある。澤井氏が中世・ルネサンスの研究のなかで、アニミズムや魔術思想に深い意味を見い出しているのも、一神教の原理主義の「尊大」の危険を十分に洞察しているからであろう。
あたかもいま流行の歌『千の風になって』の世界も伺えます。
さて、著者自身は、自著を語る(書評館)で、
自分のからだについてはわからないことばかり、というのが正直なところです。からだも、心体とかいて、自分で勝手に納得していたころから、「からだ」と平仮名で書いてやっと落ち着きをえる時期までずいぶんと日数がかかりました。
と書かれています。
これにはちょっと、説明が必要です。
本書では、こういうように書かれています。
「からだ」には、病を抱え込みうる物質的な〈肉体〉と、構造性を強調する〈身体〉の二つがあるらしい。とすれば、身体障害者とは有機的な内外のからだの構造の一部を喪失した者の謂であり、病人と身体障害者は違う、と提言する学者の説、それを受容しようとした私の意向が内実を得たことになる。病んでいるのではない自分を確認し訴えたかった。(なぜなら、透析時代から移植手術を経ても、一部の無知でかつ心ない医療従事者をはじめとして、友人知人のほとんどが私を病人扱いしたからである。闘病生活で大変でしょうが頑張って下さい―この種の励ましの言葉を直接かけられたり手紙をくれたりした)。
しかし学者の説を一応納得ずくで採り入れても、あくまであたまからの言葉でしかなく、「からだ」を〈肉体〉と〈身体〉の次元でみずから捉えきってはじめてからだからの言葉となって、私の内に生着した。
教育、宗教、医療という精神の崇高さが求められる最たるものが現在の日本では病んでいると言われます。どうも著者は、みずからのからだと引き替えに、徒手空拳で生の論理を弁証しているように見えます。
これを読者に上手く伝えられるよう編集に腐心したつもりです。碩学のハーモニーを堪能してください。
朝日 崇(日外アソシエーツ編集局)
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