日外アソシエーツの出版物で、雑誌や新聞に掲載された書評や、著編者による自著紹介を記したブログです。
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吉村昭さんと日大文芸賞と木村暢男さんの書誌 (曾根 博義)
今では死語になっているが、昭和三十年代には「文学青年」という言葉がまだ生きていた。たんに生きていただけでなく、憧れと畏敬の念をこめて使われていた。いってみれば、当時は文学の黄金時代で、文学をやれば、哲学でも社会でも人生でも恋愛でも、世の中のことすべてがわかると信じられていた。現在では想像もできないだろうが、文学にそれほど関心がない一般の人々まで、そう信じていたのだ。それでなければ、あれほど多くの出版社から次々に文学全集が出て、それなりに売れたはずはない。文学青年は時代の先端を行く輝かしいヒーローだった。経済学部の学生でクラシック・ギターに夢中だった私も、知らぬ間にそんな時代の浪に流され、経済もギターもやめて、文学に親しむようになっていた。
文学青年は私より数年上の昭和一桁生まれに多かった。たまたまそういう先輩たちと知り合ったために文学に引き寄せられたのだ。しかし私自身は文学青年ではなかった。文学を読んだり論じたりするのは好きだが、自分で小説を書いてみようとは思わなかった。ほんとうは書きたかったのかもしれないが、自分にはとうていその能力も情熱もないと、最初からあきらめていた。小説を読むだけでなく、書いていた先輩の文学青年たちからは、文学がわからない人間だとバカにされた。けれども私から見れば、小説と酒と女以外に興味のない彼らは、文学という病気にかかっていながら、その自覚症状がない異様な人々に見えた。
文学青年たちはたいてい仲間と同人雑誌を出して、そこに小説を発表していた。もちろんその作品が評論家や編集者の目に留まって、文芸雑誌に転載されたり、新人賞の候補になったりして、作家になるチャンスをつかむことが目的だった。
当時、東京で一番有力な文学青年たちが集まっていた同人雑誌は丹羽文雄主宰の『文学者』だった。私の出会った先輩たちも、薬師寺章明、鈴木俊平、大河内昭爾、神野洋三、森常治、松本鶴雄の諸氏をはじめ、『文学者』関係の人々が多かった。だから同じ『文学者』の中心メンバーの一人だった吉村昭さんの作品は、早くから読んでいたし、その噂も耳にしていた。しかし文学青年時代にも、作家になってからも、なかなかお会いする機会はなかった。
初めてお目にかかったのは、昭和五十八(一九八三)年の秋、吉村さんの小説がいわば「逃亡」の季節の収穫期を迎えている頃だった。雑誌『世界』で「破獄」の連載が終りに近づくと、『毎日新聞』夕刊に「長英逃亡」の連載が始まっていた。
当時、私の勤務先だった日本大学で「日大文芸賞」なるものが創設され、その審査員としてお会いしたのである。賞を企画したのは江古田の芸術学部の教授をしていた文芸評論家の進藤純孝さんで、審査員は学内の進藤さんと私のほかに、学外から誰か一人作家に加わっていただこうということになった。進藤さんが最初にお願いしたには、津村節子さんだった。ところが第一回の締切の前に津村さんが何かの都合で辞退され、吉村さんが代りをつとめることになった。最初だから日大新聞社の学生記者も熱が入って、ご迷惑も考えないで吉村家にお邪魔し、津村さんの辞退の弁と吉村さんの談話を取ってきて新聞に載せた。吉村さんは、文章が正確で、作品が明快であることが大事だというメッセージを寄せた。
第一回の発表は昭和五十九年一月に行われ、吉村、進藤、曾根の三審査員の「選評」が日大新聞に掲載された。その後、毎年一回、平成二年七月発表の第六回まで、吉村さんは選考を担当し、座談会に出席したり、選評を書いたりして下さった。二回目から日大関係の尾高修也、亀谷梧郎(林青梧)の二人が審査に加わり、その後、進藤、亀谷二氏が抜けて、最後は吉村、尾高、曾根の三名になった。吉村さんのあとは黒井千次さんに代り、現在まで続いている。
多忙を極める執筆生活の中で、大学生や卒業生など素人の手書きの原稿のコピーを読まされるのは、さぞ大変だったろうと思うが、吉村さんは毎回候補作数篇を丹念に読んできて、率直な感想を伝えた。今でもよく憶えている発言がいくつかある。
吉村さんは自分の評価をはっきり出しながら、決してそれを人に押しつけようとしなかった。むしろ自分の判断が他の審査員と同じだったり、近かったりすることがわかると、ほっとしている様子だった。それはたんに謙虚だということではない。文学作品の評価が読む人によってどんなに違うものであるか、吉村さんは身に沁みてわかっていたからではないかと思う。のちに本にまとめられた『私の文学漂流』(平成四年十一月、新潮社)で、自分の芥川賞候補作の読まれ方や、雑誌『文学者』の編集にたずさわっていたときの体験を通じて、そのことを語っている。『文学者』でいっしょだった林青梧さんとも、ある作品の評価が食い違ってショックを受けたことがあったと書いている。
もう一つ記憶に残っているのは、吉村さんの小説評価の第一の基準が文章の明確さにあったことである。志賀直哉や梶井基次郎の文章を重んじていた人だから当然のことかもしれないが、とくに短篇では視点が乱れないことが重要だという意見を繰り返し述べていた。
ところで最近出た木村暢男さんの労作『人物書誌大系41 吉村昭』(二〇一〇・三、日外アソシエーツ)には、以上の日大文芸賞関係の選評、選考座談会などすべての記録が収められている。平成十六年度までの日大文芸賞受賞作品と選評は『日大文芸賞 1983-2004』(二〇〇五・三、日大新聞社)にまとめられているが、木村さんの書誌は受賞作のなかった年度の同書未収録の選評や関連記事まで拾っている。この一事をもってしても木村さんの周到ぶりがうかがえる。
かくいう私も、ちょうど日大文芸賞創設の前後、日外アソシエーツの「人物書誌大系シリーズ」がスタートしたとき、当時、関心を抱いていた文学者伊藤整についての、利用者の便を考えた独自の編集の、できるかぎり完璧な書誌を作りたいと思って、刊行予告に載せてもらった。しかし三十年近く経った今日にいたるまで、責任を果たしていない。調査を止めたわけではない。もっぱら怠慢のせいである。
書誌や年譜に完璧ということはあり得ない。一歩でも完璧に近づく努力を重ねることが大切なのではないだろうか。その点、木村さんの書誌は、吉村昭書誌としても、「人物書誌大系シリーズ」の一冊としても、特筆に値すると思う。
今では死語になっているが、昭和三十年代には「文学青年」という言葉がまだ生きていた。たんに生きていただけでなく、憧れと畏敬の念をこめて使われていた。いってみれば、当時は文学の黄金時代で、文学をやれば、哲学でも社会でも人生でも恋愛でも、世の中のことすべてがわかると信じられていた。現在では想像もできないだろうが、文学にそれほど関心がない一般の人々まで、そう信じていたのだ。それでなければ、あれほど多くの出版社から次々に文学全集が出て、それなりに売れたはずはない。文学青年は時代の先端を行く輝かしいヒーローだった。経済学部の学生でクラシック・ギターに夢中だった私も、知らぬ間にそんな時代の浪に流され、経済もギターもやめて、文学に親しむようになっていた。
文学青年は私より数年上の昭和一桁生まれに多かった。たまたまそういう先輩たちと知り合ったために文学に引き寄せられたのだ。しかし私自身は文学青年ではなかった。文学を読んだり論じたりするのは好きだが、自分で小説を書いてみようとは思わなかった。ほんとうは書きたかったのかもしれないが、自分にはとうていその能力も情熱もないと、最初からあきらめていた。小説を読むだけでなく、書いていた先輩の文学青年たちからは、文学がわからない人間だとバカにされた。けれども私から見れば、小説と酒と女以外に興味のない彼らは、文学という病気にかかっていながら、その自覚症状がない異様な人々に見えた。
文学青年たちはたいてい仲間と同人雑誌を出して、そこに小説を発表していた。もちろんその作品が評論家や編集者の目に留まって、文芸雑誌に転載されたり、新人賞の候補になったりして、作家になるチャンスをつかむことが目的だった。
当時、東京で一番有力な文学青年たちが集まっていた同人雑誌は丹羽文雄主宰の『文学者』だった。私の出会った先輩たちも、薬師寺章明、鈴木俊平、大河内昭爾、神野洋三、森常治、松本鶴雄の諸氏をはじめ、『文学者』関係の人々が多かった。だから同じ『文学者』の中心メンバーの一人だった吉村昭さんの作品は、早くから読んでいたし、その噂も耳にしていた。しかし文学青年時代にも、作家になってからも、なかなかお会いする機会はなかった。
初めてお目にかかったのは、昭和五十八(一九八三)年の秋、吉村さんの小説がいわば「逃亡」の季節の収穫期を迎えている頃だった。雑誌『世界』で「破獄」の連載が終りに近づくと、『毎日新聞』夕刊に「長英逃亡」の連載が始まっていた。
当時、私の勤務先だった日本大学で「日大文芸賞」なるものが創設され、その審査員としてお会いしたのである。賞を企画したのは江古田の芸術学部の教授をしていた文芸評論家の進藤純孝さんで、審査員は学内の進藤さんと私のほかに、学外から誰か一人作家に加わっていただこうということになった。進藤さんが最初にお願いしたには、津村節子さんだった。ところが第一回の締切の前に津村さんが何かの都合で辞退され、吉村さんが代りをつとめることになった。最初だから日大新聞社の学生記者も熱が入って、ご迷惑も考えないで吉村家にお邪魔し、津村さんの辞退の弁と吉村さんの談話を取ってきて新聞に載せた。吉村さんは、文章が正確で、作品が明快であることが大事だというメッセージを寄せた。
第一回の発表は昭和五十九年一月に行われ、吉村、進藤、曾根の三審査員の「選評」が日大新聞に掲載された。その後、毎年一回、平成二年七月発表の第六回まで、吉村さんは選考を担当し、座談会に出席したり、選評を書いたりして下さった。二回目から日大関係の尾高修也、亀谷梧郎(林青梧)の二人が審査に加わり、その後、進藤、亀谷二氏が抜けて、最後は吉村、尾高、曾根の三名になった。吉村さんのあとは黒井千次さんに代り、現在まで続いている。
多忙を極める執筆生活の中で、大学生や卒業生など素人の手書きの原稿のコピーを読まされるのは、さぞ大変だったろうと思うが、吉村さんは毎回候補作数篇を丹念に読んできて、率直な感想を伝えた。今でもよく憶えている発言がいくつかある。
吉村さんは自分の評価をはっきり出しながら、決してそれを人に押しつけようとしなかった。むしろ自分の判断が他の審査員と同じだったり、近かったりすることがわかると、ほっとしている様子だった。それはたんに謙虚だということではない。文学作品の評価が読む人によってどんなに違うものであるか、吉村さんは身に沁みてわかっていたからではないかと思う。のちに本にまとめられた『私の文学漂流』(平成四年十一月、新潮社)で、自分の芥川賞候補作の読まれ方や、雑誌『文学者』の編集にたずさわっていたときの体験を通じて、そのことを語っている。『文学者』でいっしょだった林青梧さんとも、ある作品の評価が食い違ってショックを受けたことがあったと書いている。
もう一つ記憶に残っているのは、吉村さんの小説評価の第一の基準が文章の明確さにあったことである。志賀直哉や梶井基次郎の文章を重んじていた人だから当然のことかもしれないが、とくに短篇では視点が乱れないことが重要だという意見を繰り返し述べていた。
ところで最近出た木村暢男さんの労作『人物書誌大系41 吉村昭』(二〇一〇・三、日外アソシエーツ)には、以上の日大文芸賞関係の選評、選考座談会などすべての記録が収められている。平成十六年度までの日大文芸賞受賞作品と選評は『日大文芸賞 1983-2004』(二〇〇五・三、日大新聞社)にまとめられているが、木村さんの書誌は受賞作のなかった年度の同書未収録の選評や関連記事まで拾っている。この一事をもってしても木村さんの周到ぶりがうかがえる。
かくいう私も、ちょうど日大文芸賞創設の前後、日外アソシエーツの「人物書誌大系シリーズ」がスタートしたとき、当時、関心を抱いていた文学者伊藤整についての、利用者の便を考えた独自の編集の、できるかぎり完璧な書誌を作りたいと思って、刊行予告に載せてもらった。しかし三十年近く経った今日にいたるまで、責任を果たしていない。調査を止めたわけではない。もっぱら怠慢のせいである。
書誌や年譜に完璧ということはあり得ない。一歩でも完璧に近づく努力を重ねることが大切なのではないだろうか。その点、木村さんの書誌は、吉村昭書誌としても、「人物書誌大系シリーズ」の一冊としても、特筆に値すると思う。
「吉村昭研究」第十号・記念増大号 p42~45より全文転載
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人物書誌大系41『吉村昭』を書いて―感謝と後に続く人への期待 (木村暢男)
数多くの人々のご協力・ご支援により、『吉村昭』を日外アソシエーツより刊行した。近代文学館、埼玉県立図書館など公共図書館はもとより、その他多くの方々にもお世話になった。この機会に改めてお礼申し上げたい。
一人の作家を追いかけることが、いかに忍耐を要し、困難を伴うものであるかを実感した。紙資料・インターネットによる情報は当然のことながら大いに参考になった。しかしながら調査を進めるに従い、それらの情報が必ずしも正確であるとは限らず、原典による確認の必要性を痛感した。
第三者による資料はもとより、恐れ多いことながら、吉村先生ご本人による資料、例えば著書に記載された巻末資料など、についても調べさせていただいた。(先生、ゴメンナサイ)。因みに、資料収集時点でのデータと原典調査の結果が異なるものについては、『書誌』では、☆印を付した。
「書誌」には完璧なものはないと言われる。完全であることは到底適わぬ夢としても、半歩でも一歩でも近付くことを目標とした。この書誌『吉村昭』は、志に反し、「遺漏」、「誤記」等が少なからずあるものと思う。そのような危惧をいだきつつも、この本が、吉村文学の研究者・愛好者にとって何がしかの参考になってくれれば幸いである。
吉村昭逝去後も少なからぬ単行本が岩波書店、河出書房新社等により刊行されており、その他の新資料も発見されている。より充実した新しい「書誌」が刊行されることを期待している。
数多くの人々のご協力・ご支援により、『吉村昭』を日外アソシエーツより刊行した。近代文学館、埼玉県立図書館など公共図書館はもとより、その他多くの方々にもお世話になった。この機会に改めてお礼申し上げたい。
一人の作家を追いかけることが、いかに忍耐を要し、困難を伴うものであるかを実感した。紙資料・インターネットによる情報は当然のことながら大いに参考になった。しかしながら調査を進めるに従い、それらの情報が必ずしも正確であるとは限らず、原典による確認の必要性を痛感した。
第三者による資料はもとより、恐れ多いことながら、吉村先生ご本人による資料、例えば著書に記載された巻末資料など、についても調べさせていただいた。(先生、ゴメンナサイ)。因みに、資料収集時点でのデータと原典調査の結果が異なるものについては、『書誌』では、☆印を付した。
「書誌」には完璧なものはないと言われる。完全であることは到底適わぬ夢としても、半歩でも一歩でも近付くことを目標とした。この書誌『吉村昭』は、志に反し、「遺漏」、「誤記」等が少なからずあるものと思う。そのような危惧をいだきつつも、この本が、吉村文学の研究者・愛好者にとって何がしかの参考になってくれれば幸いである。
吉村昭逝去後も少なからぬ単行本が岩波書店、河出書房新社等により刊行されており、その他の新資料も発見されている。より充実した新しい「書誌」が刊行されることを期待している。
「吉村昭研究」第十号・記念増大号 p49より全文転載
『人物書誌大系 吉村昭』について (日外アソシエーツ編集部 岩崎)
が。この時点で私は、吉村作品は『関東大震災』しか読んだことがなく(そしてそのあまりの凄烈さに呆然としたものでした)、かつ “個人書誌”を担当するのも初めてで、内心かなりの不安を持っていました。しかし、木村さんの『年譜』を拝読し、さらに木村さん本人にお会いして、不安はかき消され、「これは大丈夫!」と確信が生じました。私家版とは思えない素晴らしい密度の書誌。さらに木村さんのお人柄。著編者がいる書籍の成功度はその著編者の人柄で決まると勝手に思っていますが、木村さんはとても話しやすく、かつ吉村昭に大きな愛情をお持ちの方だったのですから。
~中略~
以上、長々とした説明になりましたが、実物に勝るものは無し、是非お近くの図書館にリクエストいただき手に取っていただけたら幸いです。
人物書誌大系 41 吉村昭
木村暢男〔編〕 A5・470p 2010.3刊
定価19,110円(本体18,200円)
ISBN:978-4-8169-2240-4
2009年夏、編集部長から「木村暢男さんという人が長年私家版で制作してきた『吉村昭年譜』(以下『年譜』とします)を個人書誌シリーズ「人物書誌大系」シリーズに入れて刊行する。担当希望者は手を挙げよ」というお達しが出されました。
吉村昭といえば、同僚は「誠実に史実を追った記録文学を書いた凄い人」、営業本部長は「「少女架刑」とか初期短篇集の作品が好きなんだ」、知人の評論家は「『孤独な噴水』で主人公がボクサーなのに“私”と言っているのが面白くて、以来好きになった」と語る作家であり、どの人も一様に敬意をもって語るのが印象的で、とても興味のあった作家です。これは千載一遇の機会と、担当を希望しました。が。この時点で私は、吉村作品は『関東大震災』しか読んだことがなく(そしてそのあまりの凄烈さに呆然としたものでした)、かつ “個人書誌”を担当するのも初めてで、内心かなりの不安を持っていました。しかし、木村さんの『年譜』を拝読し、さらに木村さん本人にお会いして、不安はかき消され、「これは大丈夫!」と確信が生じました。私家版とは思えない素晴らしい密度の書誌。さらに木村さんのお人柄。著編者がいる書籍の成功度はその著編者の人柄で決まると勝手に思っていますが、木村さんはとても話しやすく、かつ吉村昭に大きな愛情をお持ちの方だったのですから。
~中略~
ここで、少しばかり、本の内容を紹介させていただきたいと思います。
◇I.生涯と業績
年譜形式でその年の吉村昭の業績・主要作品・社会の出来事をまとめたものです。受賞や闘病エピソードから、幼稚園の入園手続きを自分でやっていたり、倉本聰のお宅でバーベキューをしたりという楽しいエピソードまで。吉村昭という作家を知らない人、あるいは硬派な作家というイメージを持っている人には、まずこれを読んでもらえば興味を持ってもらえるのではないか、身近に感じてもらえるのではないか、と思うような、読んで面白い年譜です。
◇II.著書・作品
新聞・雑誌などに掲載された作品、単行本(収録作品を含む)、翻訳本、出演テレビ番組、講演などのデータ、計2227件を掲載。単行本未収録作品も多数。全業績を総覧できます。また、図書館などで探して読む一助にもなります。
◇III.座談・対談・インタビュー・その他
◇III.座談・対談・インタビュー・その他
吉村昭が出席した座談・対談・インタビューなどの、掲載紙誌・収録本データ(対談者やインタビュアー名を含む)、計226件を掲載。対談者は新田次郎、城山三郎、橋爪功、田沼武能、小沢昭一などなど多士済々、テーマも小説・戦争・医療から上野動物園・大相撲まで様々です。こちらも単行本未収録多数。
◇IV.書評・関連記事
一転して、吉村昭について書かれた論・記事の掲載紙誌・収録本データ(論者・評者名を含む)1844件です。国内外問わず、実に多くの方が吉村昭について語っています。収録データのタイトルを全部読めば吉村昭という人物がどう捉えられてきたか浮かび上がってくるような記録でもあります。
◇V.文庫解説
解説が付されている文庫本データ109件です。どの文庫に誰がどんな解説を書いているのか一覧できます。
◇VI.弔辞
大河内昭爾、大村彦次郎、高井有一、中村稔各氏が「お別れの会」で読まれた弔辞を掲載させていただきました(『年譜』には未掲載)。是非ファンの方々に読んでいただきたい、哀惜の念溢れる弔辞です。
◇VII.索引
本文中の著書、作品、書評を対象とした索引です。ある作品が「Ⅱ.著書・作品」「Ⅳ.書評・関連記事」のどこに出現するかが分かります。作品自体のデータはもちろん書評データもまとめて検索できます。
◇序文「年譜の重み」
津村節子さんに執筆いただきました。『年譜』に対する吉村昭の反応や、本書誌の意義などについて、読み応えのある、また、書誌の巻頭にふさわしい素晴らしい序文をお寄せいただきました。
◇口絵写真
津村さんに所蔵の写真から選定いただきました。口絵は黒ずくめで一見ちょっと怖い感じ、しかしよくよく見れば何か困っているようで、いい写真だなあと思います。これは新潮社から出た選集のパンフレットに使われた写真とのこと。口絵裏には6点。弟さんとの写真、中学卒業時の写真、ご自宅で凧に囲まれている写真、雪原を歩く写真、文学碑除幕式にて津村さんとの写真、書斎での写真を掲載しました。
ちなみに、この書斎写真は、当初誰が撮影したのか分かりませんでした。新潮社や文藝春秋、記念館建設が予定されている荒川区の方に伺っても不明。どうしたものかとご相談したところ、津村さんが別の候補写真を提示くださいました。同じく書斎写真で、榊原和夫さんの写真集に掲載されているもの。構図・服装が不明写真と殆ど同じ。あれも榊原さんが撮ったものでは!と早速、榊原さんの消息を調査してご遺族に尋ねたところ、めでたく確認がとれ、快く掲載許諾をいただけました。個人的に思い出深い写真です。
「吉村昭研究」第十号・記念増大号 p45~48より抜粋
木村暢男〔編〕 A5・470p 2010.3刊
定価19,110円(本体18,200円)
ISBN:978-4-8169-2240-4
岩手県立図書館の広報誌「ぺっこ」11号に「もう一度読みたい、国語の教科書」という特集 があり、“まめ情報 教科書のことを調べたい方へ”という案内に小社『教科書掲載作品』が紹介されました。
http://www.library.pref.iwate.jp/oshirase/peko/vol.11/11-tokushuu.pdf
読んでおきたい名著案内 教科書掲載作品 小・中学校編
日外アソシエーツ〔編〕
定価9,800円(本体9,333円) 2008.12刊
A5・700p ISBN978-4-8169-2152-0
読んでおきたい名著案内 教科書掲載作品13000
阿武泉〔監修〕
定価9,800円(本体9,333円) 2008.4刊
A5・920p ISBN978-4-8169-2097-4
http://www.library.pref.iwate.jp/oshirase/peko/vol.11/11-tokushuu.pdf
読んでおきたい名著案内 教科書掲載作品 小・中学校編
日外アソシエーツ〔編〕
定価9,800円(本体9,333円) 2008.12刊
A5・700p ISBN978-4-8169-2152-0
読んでおきたい名著案内 教科書掲載作品13000
阿武泉〔監修〕
定価9,800円(本体9,333円) 2008.4刊
A5・920p ISBN978-4-8169-2097-4
江戸川区立篠崎図書館の図書館報「ぷらっつ☆篠崎」2010年4月1日号(011号)の中で小社『図書館に行ってくるよ』が紹介されました。
図書館に行ってくるよ―シニア世代のライフワーク探し
近江哲史〔著〕
定価1,995円(本体1,900円) 2003.11刊
四六判・270p ISBN978-4-8169-1811-7
図書館に行ってくるよ―シニア世代のライフワーク探し
近江哲史〔著〕
定価1,995円(本体1,900円) 2003.11刊
四六判・270p ISBN978-4-8169-1811-7