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日外アソシエーツの出版物で、雑誌や新聞に掲載された書評や、著編者による自著紹介を記したブログです。

   
「近代日本精神の要」富岡幸一郎

20707.jpg 「須賀敦子と9人のレリギオ―カトリシズムと昭和の精神史
 神谷光信著 2007年11月刊
 定価3,800円(本体3,619円)
 四六判・220頁 ISBN978-4-8169-2070-7
 案内サイト:
 http://www.nichigai.co.jp/sales/2070-7.html

 神谷光信氏にはじめてお会いしたのは、たしか作家の小川国夫氏の講演会の二次会であったろうか。記憶が曖昧で申しわけないのだが、酒場であったか、小川さんを囲んでの恒例のカラオケの席であったか、神谷氏がギリシア正教徒の詩人である鷲巣繁男についての評伝を書き進めている、とおっしゃったのは鮮烈に覚えている。ワシスシゲオ! と私はその場で少々飛び上がりそうになった。難解であり博覧強記、漢詩からキリスト教異端派にまで通じた、壮大な宗教的叙事詩群を書き遺した詩人。私のなかでもその名前は、現代詩の極星として、つねに関心の的としてあった。しかし、近づくには、あまりにも秘儀にみちた言葉の世界であり、その入口で立ち止まって久しかったからである。

 私は、その時、眼前におられる神谷氏の顔をしげしげと眺めたのではなかったか。つまらぬ喩えだが、埴谷雄高の『死霊』の三章で、三輪与志が屋根裏部屋に孤り住み思索を続ける黒川健吉と出会い、その顔を凝っと眺めやるシーンを想起したものだ。

 一九九八年の暮れに、『評伝 鷲巣繁男』は送られてきた。綿密な調査と取材に基づいた、見事な大部の一冊であり、興奮を抑えつつ徹夜で読破した。この宗教詩人の隠された苦闘の生涯を、はじめて知らされた。神谷氏の筆は、その形而上の苦悶ともいうべき実存を、生々しくしかも精緻に描き出して、文字通り巻を措く能わずであった。

 その後も、神谷氏は『詩のカテドラル』など着実に、詩と宗教の交差する、広く深い狭間を探究されてきた。近代日本の文学、とりわけ文芸批評は、この文学にとって最も重要かつ興味深い精神圏に、宗教的なるものへの無智、これもとりわけキリスト教への誤解と無関心によって十分に踏み込むことをなしてこなかったのである。これはひとり文学者のみならず、現代の知識人と呼ばれる者たちも同様である。


 さて、本書は、サブタイトルに「カトリシズムと昭和の精神史」とあるように、神谷氏の長年のカトリシズム文学の研究の成果に基づきながら、昭和の知識人の精神の位相を、ひとつの流れのなかに描き出してみせた内容である。

 須賀敦子を筆頭に、犬養道子、皇后陛下、村上陽一郎、井上洋治、小川国夫、小野寺功、高田博厚、芹沢光治良、岩下壮一。この名前を見て、著者の関心のフィールドの広さと、その問題意識の尖鋭さがおのずから知れるが、これに本誌『表現者』で賞を受賞した「大転落」と題する、難民移民大量流入時代の保守思想に関する評論などをふくめれば、近年の神谷氏が、文学と宗教という古くて新しい問題とともに、そこでグローバル時代の地域と政治というアクチュアルなテーマに挑戦されているのがよくわかるだろう。

 各論について、ここで詳しく紹介できないが、須賀敦子がいわゆる人気作家・エッセイストとして活躍したことを、著者はその生涯の一コマとしてしか評価していないように(「甘美な抒情に流れて魅力に乏しいものがある」とむしろ批判的である)、各々の人物の評価は、その生の全体像に深く関わって紡ぎ出されている。ここに、本書のクリティックが光っている。

 須賀敦子について、「(その)信仰は必ずしも教会的なわけではない。彼女が本気になって宗教に取り組んだとしたら、それはおそらくカトリック教会を脅かす内容になったであろう。そういう書物を書かざるをえない軌跡を辿った人であった」と述べているところにもあきらかなように、著者は須賀敦子という書き手が、いわゆる物書きの領分におさまらない存在であったこと(第二ヴァチカン公会議、アッシジの聖フランチェスコ、ジョルダーノ・ブルーノ、シモーヌ・ヴェイユ等々との影響関係が具体的に言及されている)が、はっきりとした輪郭をもって描かれている。

 皇后陛下についての一文は、皇后様が皇室ジャーナリズムの作ったその像のうちにあるのではなく、「へりくだりの詩人」として歌を詠まれてきた、その祈りと詩の尊さをとくに描いている。
 「海陸のいづへを知らず姿なきあまたの御霊国護るらむ」
 平成八年の終戦記念日に詠まれた歌について、著者はこう記している。
 「……この歌は個人的な詠嘆ではなく、天皇家の一員として民族霊を鎮めるための祝言であり、皇后陛下そのひとにしか読み得ないものである。悲しみの極みが三十一字に結晶し、犯しがたい威厳を湛えている」

 村上陽一郎における「近代科学とカトリシズム」、井上洋治の「スコラ神学の拒否」、小川国夫「夢想のカテドラルの彫刻群像」、この三篇からも教えられるところがおおかったが、カトリック思想家であり西田哲学にも深く関心を示した宗教哲学者の小野寺功を書いた一文は、ほとんど正面きって取り上げられることのないこの人物の全体像を示し、大変興味深いものがあった。

 実は、私自身も小野寺の『聖霊の神学』などにチャレンジしてみたのだが、その神学の全体像を十分につかみきれないでいた。鈴木大樹の「霊性」、西田幾多郎の「場所の論理」などとの関連については、神谷氏にぜひとも、さらに議論を展開していただきたいと思った。この辺りは、まさに近代日本(現代も同じ)の知識人のアキレス腱であり、アカデミズムの手にも負えないトランスディスプリナリティ(超学問)の領域なのである。本書の問題意識は硬直化したアカデミシャンにも大きな刺激になるだろう。

 そして、最終章の岩下壮一「対決的カトリシズム」は、おそらく神谷氏が最も書きたかった一文であろう。近代日本において、そのヨーロッパ体験もふくめてカトリシズムの信仰と思想を、文字通りその生涯において「生きた」岩下こそ、今日あらためて光が当てられなければならない存在である。
 今回の文章は、テーマのごく一部にすぎないが、岩下という近代日本の英知を知る手引きとしては過不足ないものだろう。

 「わたしは常に、明治以降、平成の現在に至るまで、日本近現代のクリスチャン作家たちの多くが、口々に私の聖書、私のイエスを語りたがることをいぶかしく思っている」と著者は明言している。

 これは岩下神父が、カトリシズムにおいて「何よりも大切なのは、リトルギア(典礼)である」と考えていたことと相通じる。このリトルギアの問題こそ、近代日本の思想(それはカトリシズムやプロテスタントといった宗教内の問題ではない)にとって、最大のアキレス腱であった。つまり、「身体」というトポス(場所)を欠いた、思想・宗教・言葉が、近代の知識人の膨大化した教養主義を形成してきたからである。リトルギア(典礼)とは、個人を超えた「形」の思想であり、それは来歴の身体化であり、宗教的にいえば見えざる神との対話の可能性であった。実はこのラテン語のリトルギアは、著者によれば「始源のなぞり」の意味で「複製」の謂であり、それは絶えざる反復によって維持されることで「常にオリジナル」になるという。

 紙幅が尽きたが、このテーマはそのまま日本の天皇(制度)との比較を招かずにはおかないであろう。興味尽きせぬ一冊である。

富岡幸一郎

表現者 2008年1月号 p.170~171より転載

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